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母との約束、27歳のセーブ王 横浜DeNA山崎康晃の思い

ベイスターズ | 神奈川新聞 | 2020年10月8日(木) 18:00

 青い波がスタンドを揺らす。ブルペンの扉が開くと、「ヤ・ス・ア・キ」の歓声が一瞬にして最大のボリュームとなり、その熱狂は背番号19に向けられる。いまや横浜DeNAベイスターズの本拠地・横浜スタジアムの名物となった光景だ。

 大観衆の視線を一身に受け止め、最終回の孤高なマウンドを守り抜く山崎康晃が、何よりも大切にしているものがある。それは自分を支えてくれる母や姉をはじめとした「家族」、そして目標であり、希望である「夢」を持つことだ。ファンにひとときの夢を与えるボールパークで活躍するまでに、27歳の青年が歩んできた道のりは決して平坦ではなかった。(神奈川新聞・小林剛)

最終回のマウンドに向かう

「お前の母ちゃん、何やってんだよ」

 横浜DeNAベイスターズで5年目を迎えた康晃は、日本人の父とフィリピン人の母との間に生まれた。母ベリアは19歳のとき、首都マニラに近いパテロスという街から日本語を学ぶために来日し、翌年に結婚。長女の麻美を出産し、2年後の1992年10月2日に長男である康晃が誕生した。3860グラムの赤ん坊は、後に預けられた保育園を所狭しと駆け回り、姉の麻美とはけんかも良くした。元気で活発な少年だった。

活発だった康晃少年:本人提供

 夫妻が離婚したのは康晃が小学3年生の頃だ。ベリアは故郷に戻ることも考えた。寂しい思いをさせるし、金銭的に苦労をかけることだって容易に想像できた。家族4人の話し合いの場で、2年前に野球を始めたばかりの康晃がこう言った。

 「おれは野球が続けたい」

 ベリアはその一言で日本に残ることを決心した。

幼少期の康晃と母ベリア

 家族の苦労は絶えなかった。ベリアは朝早くから工場に向かい、夜は飲食店と寝る間を惜しんで働いた。そんな日々を思い返し、母は苦笑いを浮かべる。「ご飯の準備をしてメモを置いて家を出て行く。一緒にご飯を食べる時間もない。生きることでとにかく精いっぱい」。康晃も事情は分かっていたが、やはり寂しかったし、納得できなかった。コンビニで夕飯を買うことも多く、学校から戻ってきて麻美と2人きりの夜を家で過ごした。

 「お前の母ちゃん、何やってんだよ」

 同級生や上級生の何げない一言に傷ついた。むかついたし、けんかだってした。用意してもらった夕飯に手をつけず、アパートの壁やタンスを何度も殴った。

孤独な少年を救ったものとは

康晃(左)と森本選手

 孤独になりそうな少年を救ったのは、やはり野球だった。

 憧れは同じ地元の森本稀哲(日本ハムー横浜DeNAー西武、現解説者)。両親が知り合いで、小学生の頃から家族ぐるみで付き合いがあったからだ。1998年には、学年で言えば一回り、12歳も上の森本を追い掛けて、東京・帝京高校の応援のために甲子園球場へ足を運んだという。

 「帝京のタテジマのユニホームが格好いいな」。純粋な気持ちはいつまでも変わらなかった。

 ベリアがうなずく。「悪い方向にいくことも正直覚悟していた。野球があったおかげで、曲がった道に行かなかった」。康晃も口をそろえる。「帝京高校に行きたいっていう気持ちが、悪いことをするよりも、『野球』がしたいという気持ちにつながった。最後に理性が働いたと思う」

康晃と母ベリアさん

 小学1年生から白球を握った康晃は、決して英才教育を受けてきたわけではなかった。中学時代は硬式のクラブチームではなく、軟式野球部と硬球に近い「Kボール」を扱う地元のチームの両方に籍を置いた。中学2年の秋、進路調査希望調査書で憧れの「帝京高校」と記したら誰も相手にしてくれなかった。ベリアもまた金銭的な理由から都立高校に進むことを希望していた。

 「帝京に絶対に入ってみせる」。真剣な表情で家族に宣言した。練習にもさらに前のめりで取り組み、中学3年時には「Kボール」を使った大会の選抜チーム「オール東京」の投手兼外野手として、全国でベスト8入り。ベリアもまた信念を曲げない息子のサポートが生きがいとなっていった。

母に宛てた、1枚の手紙

高校進学とともに康晃がベリアに宛てた手紙

 2008年3月末、晴れて帝京高校への入学が決まった康晃は1枚の紙に黒いペンを走らせた。それはベリアへの感謝と決意を綴る手紙だった。

 「おれ お母さんのこと、本当に大事にしている」

 「絶対甲子園に出場して マウンドで投げている姿を、お母さんにみせたい」

 「オレ、本当に頑張ってプロ野球選手になるから。年収5000万もらって 家でも、なんでも、かってやるから」

 まずは夢を一つ実現させた15歳は、新たな目標を持って日本を代表する野球部の門をたたいた。

あこがれの帝京高校時代のユニホームを着用する:山崎康晃公式ツイッターより

 「ずっとベンチでもいいから、最後までやり通しなさい」。2008年春、母は康晃と約束を交わした。地元のヒーロー、森本稀哲に憧れて入学した帝京高校は、春夏3度の全国制覇を誇る強豪だ。同級生には140キロを投げるプロの卵のような好素材がごろごろいた。「想像以上にレベルが高い。直立不動でグラウンドの外で待って、整備して」。最初の春は毎日がその調子だった。

 監督の前田三夫は、体重が60キロに満たない細身の康晃を心配した。「体が細いからボールが軽い。能力的なものは期待していたけど、この子はまずは体をつくらないといけない」。ベリアも息子を大きくするための労を惜しまなかった。朝方に仕事から自宅へ戻ってくると、1升炊きの炊飯器にスイッチを入れ、昼食用に白飯を3合持たせた。「本人は頑張っている。頑張ってとは一度も言わなかった」

 2歳上の麻美も多忙な母に代わって、泥まみれのユニホームを洗うのが日課だった。「友達とカラオケにも、ご飯にも行きたいけど、家にはたくさんユニホームがあるわけじゃないから」。3年生が引退し、新チームとなった1年秋には、ついに背番号20をもらった。

康晃と仲良しの姉麻美さん:山崎康晃公式ツイッターより

夢が消えかねない「事件」?

高校時代、新人王に輝くなんて想像はできなかったという

 一方で、自分勝手な一面が顔をのぞかせたこともあった。2度目の春が終わる頃、夢が消えかねない“事件”を起こした。苦手教科で与えられた課題を期限までに提出しなかった。前田監督に知られることになり、野球部全体の問題に発展した。指揮官に部室へ呼び出されると、康晃は「課題は自宅にあります」ととっさに嘘をついた。「プライドが高くて、謝ることができなかった。このまま野球部を辞めるしかないと思った」

 追い詰められた康晃は自宅に戻ると、ベリアに言い放った。「もう帝京辞める」

 顔を紅潮させたベリアは、そんな理由で退部することを許さなかった。すぐにタクシーに乗せ、前田監督の携帯電話を鳴らした。「この子が野球を辞めたら生きがいがなくなる。一生懸命やらせるから、辞めさせないでください」

 前田監督は懐かしそうに振り返る。「実際に勉強が原因で辞めた部員もいるし、1日でも日を空けていたら、辞めていたかもしれないね。お母さんの気持ちに圧倒されたよ」

 康晃は翌日、小さな花束を母に手渡した。「できるのにやらなかった自分が悪い。中途半端はよくない」。その日から勉強、練習に取り組む姿勢が変わった。

少年の夢は、家族の夢になった

 2年生の夏、初めての甲子園にたどりついた。3年生の春にも、再び聖地のマウンドに立った。あくまでも2番手、3番手の位置づけだったが、最速148キロをマークする期待の星として注目された。ベリアは「甲子園に行く約束をかなえてくれた。プロに行けるかもしれない」。明るい未来が切り開かれたと思ったが、そう甘くはなかった。最後の夏は、東東京大会5回戦で敗退。10年ぶりのコールド負けという屈辱にまみれた。

 強豪校では真のエースとして胸を張れる成績は残せなかったが、最高峰の舞台への思いは膨らむばかりだった。当然とばかりに、プロ志望届を提出した。自分の名前がドラフト会議で呼ばれることはなかった。

 「初めて思い描いたレールから外れた。自分を過信していた。このままじゃいけない」

 金銭面では負担を掛けるが、プロ選手を何人も輩出する亜大への進学を望んだ。ベリアからはもう反対の声は上がらなかった。康晃の夢はもう、家族の夢となっていた。

横浜DeNAベイスターズに入団が決まった

 「どんなにきつくても、母のために『辞めたい』とは言えなかった。何も根拠はないけど、自分に言い聞かせて成功するイメージを作りあげた」

 大学3年目のシーズン、日米大学選手権で最優秀選手を獲得するなど、東都リーグのナンバーワン右腕と称された。迎えた2014年10月23日、大学4年秋のドラフト会議で横浜DeNAの監督だった中畑清が阪神との競合の末、くじで交渉権を引き当てた。4年前に家族で泣いた夜とは一転、ベリアは大きな笑顔で愛息の夢がかなったことを喜んだ。

入団会見で中畑清前監督と山崎一家

紆余曲折と、念願のタイトルと

 2015年3月31日。入団1年目から、抑えて当たり前と言われるクローザーに抜擢されると、横浜スタジアムでの本拠地開幕戦の広島戦でプロ初セーブをマーク。記念のボールは、観戦していたベリアに手渡した。その日からプロ野球人生が動き始めた。

入団以来、クローザーとして活躍を続けてきた

 19歳も上の大先輩、三浦大輔投手(現投手コーチ)の23年連続勝利の試合を締めたこともあれば、危険球で退場したこともあった。毎日、緊張のマウンドに向かう準備をしておかなければならない過酷な仕事場で、1年目には37セーブのプロ野球新人記録を打ち立てた。

 順風満帆のプロ生活にも見えるが、2年目の夏はセーブ機会で失敗を繰り返し、3年目には守護神の座を助っ人外国人に明け渡したこともあった。

 「プロ野球選手は同じことを繰り返してはいけない」。常に自らに高いハードルを課し、奮い立たせてきた。

大先輩の三浦大輔投手と一緒に

 迎えた2019年シーズンの躍進は目覚ましかった。苦手だった夏場を乗り切るため、体重を3キロ落とした。7月は1勝7セーブ、防御率0・75で自身初の月間MVPを獲得。史上最速で通算150セーブまで到達した。今シーズンは30セーブで、昨季に続いてセ・リーグのセーブ王となった。

 ブルペン陣のリーダーとしての振る舞いも自然だった。ベテラン選手の離脱もあり、「一つにまとまるために引っ張らないといけない」と率先して声を出した。「ブルペンにいると緊張する。少しでも取り除けるように、みんなで楽しくやろう」。ベイスターズらしい活気あふれるブルペンを目指したという。

ファンサービスにスランプはない

 もちろん、変わらないものもあった。

 母には入団2年目からバックネット裏のシーズンシートをプレゼントしている。幼少時代を過ごしたアパートから、マンションに引っ越しもさせた。神宮球場や東京ドームでの試合後、実家に寄ると、ベリアはフィリピンの郷土料理であるソーパスというマカロニスープをつくって待ってくれるという。

 「きょうは、表情硬かったね。何かあったの?」。ベリアにはすべて見透かされてしまうという。

 「本当に何でも分かる。すごいよね、お母さん。温かいご飯があると、気持ちも温かくなるし、帰ってきて良かったと毎回思うんですよ」

 グラウンドを離れた戦士の、つかの間の休息の場となっている。

ファンサービスを大事にしてきた

 試合中の鬼気迫る表情とは対照的に、康晃はマウンドを降りるといつもニコニコしている。「結果が出なくても笑顔でいたい」。時間が許す限りサインをしたり、写真撮影に応じたりして、ファンサービスに時間を割くのが自分のルールだ。

 「嫌なことがあれば笑いなさい。ムスッとしていたら周りは近寄りがたくなる。『笑う門には福来たる』という言葉があるでしょ」

 ベリアの教えの一つだ。

 プロ5年目を迎え、球界を代表する投手になっても、康晃はいつも思う。「みんながジャンプしてくれるような雰囲気の中で投げられるって、昔だったら考えられない。それこそ、野球をやるのがぎりぎりの生活で育ってきた。いま、横浜に入って良かったと思っている。人徳はすべてお母さんのおかげ。お母さんが作ってくれた環境で育ち、その教育を受けて良かった。人一倍、強く思っているし、感じながらプレーもしている」。ファンサービスにはスランプがないと言い聞かせ、笑顔で接している。

子供にプレゼントされるグローブ

 2018年シーズンから、ホームゲームでは少年少女の来場者5人に当たるグローブのプレゼントも続けている。反響は大きく、子どもたちからのお礼の手紙には全て目を通すという。

 「『ありがとう』という素直な気持ちをつづってきてくれて、モチベーションになる。僕がやりたかったことだし、子どもたちに夢を与える選手になりたいと思っていた」。横浜から全国の少年少女に、ほんの小さな夢のきっかけを与えるのも一選手の役割と自負している。

世界の舞台へ。壮大な「夢」

 いよいよ2年ぶりのクライマックスシリーズが幕を開ける。2017年には3位から日本シリーズまで駆け上がったが、悔しい思いもした。

 日本シリーズ第6戦。1点リードの九回にソフトバンク・内川聖一に同点のソロアーチを浴び、目前の勝利をつかみきれなかった。延長11回にサヨナラ負けし、相手チームの優勝を祝う黄金の紙吹雪が舞ったシーンをベンチから目に焼き付けた。

日本シリーズの舞台に戻ることを誓う

 「今は人として、選手として、成長できる時期だと思っている。プレッシャーがある中でプレーできる喜びも感じている。リベンジじゃないけど、やり返したいという思いは強い」

 その先には、自分自身の夢もある。地元横浜スタジアムで開催される2020年東京オリンピックに出場し、いつかはメジャーリーグのマウンドに立ちたいとも思っている。

 「出られる、出られないはあるけど、それに向けて頑張りたいし、挑戦に関しても強い気持ちを持って、日本を代表するような輝ける選手になりたい」。ベリアもそんな愛息の気持ちにいつも寄り添う。「いつ壊れてもおかしくないポジション。初心を忘れずに、元気に、大好きな野球に打ち込んでほしいし、いつまでもプレーを続けてほしい」

 夢はモチベーションであり、目指すべきところだと信じる。「目的を決めれば、何事にも前向きにできるでしょ」。母ゆずりのチャーミングなスマイルで、康晃は大きく笑うのだ。


 この記事は、神奈川新聞によるLINE NEWS向け特別企画記事です。(2019.10.4)

 
 

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