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【カナロコ・オピニオン】(14)前報道部デスク・佐藤奇平
「そばにいる」当たり前に 知的障害者グループホーム建設断念

社会 | 神奈川新聞 | 2017年2月26日(日) 11:50

グループホーム建設に反対する住民が予定地周辺に掲げていた看板(画像の一部を修整しています)
グループホーム建設に反対する住民が予定地周辺に掲げていた看板(画像の一部を修整しています)

 「私は、障害者のことをよく知っている」

 横浜市瀬谷区で計画された知的障害者グループホームに対する建設反対運動で、反対していた複数の住民が、異口同音に発した言葉だ。これが、今回の反対運動の本質を象徴している、と改めて感じている。

 反対運動では、「知的障害者ホーム建設 絶対反対」と記された複数の看板が2012年2月から16年1月まで丸4年、建設予定地周辺に掲げられた。

 反対住民の言う「知っている」とは、何を指すのだろうか。

「異質」な存在


 親戚に知的障害者がおり、障害者に関わる仕事をした経験もあるという住民の一人は、「障害者の常識は私たちの常識とは違う」と強調した。近隣に新たな住宅が建っても、「健常者同士ならどんな暮らし方をするか、常識の範囲内で分かる」。だが自分とは常識が異なる障害者は、何をするか分からない-。言外にそう語っていた。

 乗馬学校を運営する別の住民は、障害者の乗馬体験に協力したことがあるという。知的障害者が敷地内に無断で入り、馬を驚かせたこともたびたびあった。そうした経験から、障害者は「予測できない行動で馬を驚かせる存在」だと認識していた。

 つまり、彼らの言う「知っている」とは、障害者は「理解できない異質な存在」であることを知っている、という意味になる。

 理解できない存在だから、何か問題を起こすのではないかと不安になり、関係を拒む。あるいは、自分に迷惑が降りかからないよう監視にも似たまなざしを向ける。こうした「冷たい関心」を抱いた経験はないだろうか。

 昨年7月、相模原市緑区の障害者施設「津久井やまゆり園」で、入所者19人が殺害される事件が起きた。今月24日に殺人などの罪で起訴された被告の男は、「障害者は生きていても意味がない」などと供述しているという。

 知的障害のある子どもを持つ母親の一人は、「4年も看板が設置され続けたのは、地域が受け入れていたということ。それは、男の思想と通じているのでは」と打ち明けた。

 「冷たい関心」は、男と同様に自らと異なる存在を認めない不寛容さと地続きだと認識する必要がある。

 障害者とその家族が望んでいるのは、「冷たい関心」とは真逆の「温かい無関心」だ。身近に障害者がいることは当たり前であり、自宅の隣や近所に引っ越してくることも当たり前。だからグループホームが建設されても、意識しない。当たり前の近所付き合いをしていく中で、互いを知っていく。サポートが必要だと分かれば、さりげなく手を差し伸べる。そんな関係だろう。

“隔離”が助長



 障害者が「当たり前の存在」になることを妨げてきたものは何だろうか。やはり、反対住民の言葉がそれを象徴している。いわく、「大きな施設を建てた方が税金の無駄遣いにならない。過疎地に建てればお互いに安心だ」。

 20世紀、国や自治体は障害者の生活の場として、大規模な入所施設を数多く建設してきた。その大半は、都市部から離れたいわゆる過疎地だった。障害者をそうした施設に“隔離”した結果、健常者との日常的な接点は乏しくなり、「障害者は理解できない異質な存在」という考え方を助長させた。反対住民の先の言葉も、これまでの国の施策に追随したにすぎないのだろう。

 やまゆり園の再生を巡って、県は早々に現在地での全面建て替え方針を打ち出した。だが専門家や障害者団体から「時代錯誤」などと批判が相次ぎ、県は再検討する考えを示している。

 障害者が地域の中で暮らし、隣人であることが当たり前となる環境を整えていかなければ、同様の反対運動はどこででも起こりうる。その意味でも、相模原事件と今回の反対運動は地続きなのだといえる。

 「相模原の事件とまったく関係がないのに」。住民の一人は、そう訴えた。障害者を拒んだのではなく、地権者に問題があるから反対した、という主張だ。実際、地権者側にも原因はあったと言わざるを得ない。

 11年夏に建設準備が始まってすぐから、反対住民は「計画に関する事前説明がない」ことを問題視した。だがそこに差別意識を感じ取った地権者の男性(76)と運営予定だった社会福祉法人は「法的に説明する義務はない」と強調。横浜市を交えた話し合いの場でも、住民側と感情的に応酬した。建設予定地に建つアパートを巡っては、管理が行き届かない面もあった。その積み重ねもあって反対住民は不信感を募らせ、「建設に反対するのは地権者が信用できないから」と本質から目をそらす口実を持ってしまった。

報道側の責任


 今回の事態は、いくつかの要因が重なった結果だ。横浜市は「反対運動は障害者差別」と正面から捉えた対応をしなかった。地元自治会は、関係者・関係団体でつくる「瀬谷区障害者自立支援協議会」で反対運動を取り上げないよう要請したという。いずれも、差別問題が顕在化しない方向に働いた。そしてわれわれメディアも、その責の一端を負っている。

 記者は13年夏からこの問題を取材したが、記事にしたのは建設断念から10カ月後の昨年10月だった。地権者側と反対住民の溝の深さから「記事になれば対立は決定的となり、建設できなくなるか、たとえ建設されても入居者に不利益が生じる」と考えたためだ。

 記事掲載後の昨年11月、横浜市瀬谷区で障害者支援に取り組むグループの集いに招かれた際、複数の参加者から「知っていたならもっと早く報道すべきだった」と指摘され、地域住民の多くがこの問題の詳細を知らなかったことに気付かされた。

 一方で、「自分の地域に看板が出されたら、きれいな色のペンキで塗ってしまう」「違和感を持った人が会員制交流サイトで発信すればよかった」といった意見も出された。すぐに記事にしていれば、こうした自発的な行動をあちこちで呼び起こし、看板撤去とグループホーム建設への機運を高めることにつながっただろう。「論を興す」「よりよい社会をつくる」というメディアの役割を果たせなかった責任を痛感している。

 
 

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