自身も重度身体障害があるNPO法人ノアールの熊篠慶彦理事長は津久井やまゆり園の事件後、介助者に「もし狙い目だと思われていたら」と、恐怖を抱いたという。慶応大の岡原正幸教授は、事件がそうした人と人との基本的な信頼関係にまで波及したと指摘する。東京・渋谷の「ロフト9渋谷」で開かれた異色のトークライブでは、きれい事抜きの言葉が飛び交った。
よぎった恐怖
岡原正幸教授=以下岡原 僕たちは社会にあおられていて、「積極的に物事をやらないといけない、今の自分のままでいたらいけない」と思っている。今のままで十分なのに、何か求められているって。
でも、そんな必要はない。あるときはある人が活躍しているし、またあるときはその人は休んでいて、他の人が活躍している。それでいいわけで。競うように総活躍しようと求め、他人への関心を失っていく中に、この事件もあるんだろうと思うし、意思疎通がうんぬんも今回の事件に関係ないというのが僕の持論。意識がないような状態と思われる場合も含めて。
熊篠慶彦理事長 もちろん、意思疎通ができないなら「死ね」だ、「殺せ」だなどと言っているわけではなく、ただ、正しく重度障害者の姿が表に出ていないから、正しく理解されていないから、どうなんだろうと。
今、同級生の彼のことを考えれば、最重度の知的障害がある一方、身体障害がほぼないわけで、常に誰か介助者が付いていなければ行動障害もある。何を始めるか分からないから。もちろん、何かシグナルが出て走り始めるのかもしれないけれど。
小学生の時はいい。でも、そういう強度行動障害とか多動とかがあると、腕力でかなわなくなる。本人に言っても分からない。それを抑えつけようとするのは、拘束とかそういう問題になってくる。「もうじゃあどうするんだよ」ってなったとき、施設に預けざるを得なくなると思う。
僕は特別支援学校だけじゃなくて、県立施設とかも利用していたことがあって、多くの障害者と過ごしてきた。いいか悪いかは別にして、最重度は本当にケアする側が大変だと感じてきた。
僕は、容疑者を擁護するつもりはさらさらない。
でも、ケアをする側も大変だ、と思うことがある。
病院でも、重度で症状が改善することがない人のケアに当たる看護師さんとかヘルパーさんとかが、「終わりの見えないケア」に苦しんでいるのを見る。例えば、骨折なら骨がつながれば退院できる。よくなって退院。患者が治った姿を見て、恐らく、それがケアする側のモチベーションにつながっていく。
だけど、重度の心身障害があったりすると、ケアをしても「ありがとうございます」の言葉もなくて、同じことの繰り返しになる。それで燃え尽き症候群みたいになって、介護や看護の現場を去っていってしまう人も結構いる。僕はケアされる側から、実際に見てきた。
そういう現実を、どれだけの人がきれい事抜きで、どれだけ認識できているのか。分からない。だから僕は次にいけない。
あの事件の後、夏風邪をひき、排せつなどで普段よりも介助が必要になってしまい、緊急でヘルパーさんに来てもらった。
それで、自宅にヘルパーさんが来ておむつを替えてもらっているとき、ふいに「もしこの瞬間、もしこのヘルパーさんも刃物を隠し持っていたら」-という思いが初めて、頭の中をちらついた。ずっと来てくれているヘルパーさんはそれなりに慣れているけれど、だからこそ、普段の障害よりも重いこの弱った状態だからこそ、「今なら狙い目だ」って思われちゃったら、どうなのよ、ってベッドの上で事件のことを思い出してしまった。