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語り継ぐ関東大震災
未曽有に学ぶ〈59〉石碑語る心の復興

社会 | 神奈川新聞 | 2017年9月1日(金) 10:22

神社の再建記念碑の裏側に回り、支援した人々の名前などを書き写す武村教授=2013年8月、相模原市南区
神社の再建記念碑の裏側に回り、支援した人々の名前などを書き写す武村教授=2013年8月、相模原市南区

◆名古屋大 武村教授 農村の人々を思う
 背丈の倍近い大きな石碑に向き合い、あるいは生い茂る雑草の中に分け入り、風化し判読しにくくなった碑文に目を凝らし続けた。バスを乗り継ぐなどして神奈川の各地に出向く地道な作業を重ねること3年。かつてそこに暮らした人々の息づかいを感じながらの調査で気付いたのは、「農村にこそ復興のあるべき姿がある」ということだった。94年前、10万5千人余りもの命を奪った関東大震災。どうにか生き延び、おらが村のために立ち上がった人たちに、名古屋大教授の武村雅之(65)は心を寄せ、今に生きる私たちへのメッセージを読み取ろうとしている。


調査結果


 今月上梓する新著のタイトルに思いを込めた。「復興百年誌」。副題は「石碑が語る関東大震災」だ。2013年から3年をかけた神奈川での調査成果がその下敷きになった。

 関東大震災といえば、犠牲者の7割近くを占めた東京の被害が象徴的に語られることが多い。

 代表されるのは、逃げ込んだ4万もの人々のうち3万8千人が火炎にまかれて亡くなった陸軍被服廠(しょう)跡(現東京都墨田区)の悲劇。現在は公園となり慰霊堂が立つその場所も含め、都内に残る慰霊碑や追悼碑を既に調べ上げていた武村だが、「当時は自分の中で焦点が定まっていなかったし、大火で焼き尽くされたことを刻んだ都内の碑からは個々の人間が見えにくい」。対比させながら神奈川の記憶の現場を訪ね続けたことで震災の、その後の復興の本質が見えてきた。

 「復興に際してどのような制度を使ったのか、どれほどのお金が必要だったのか、そしていつ復興することができたのか。地域ごとの細かい事情は、復興について刻んだ石碑を丹念に読み込む作業を通じて知ることができた」

 県西部を中心とした数々の石碑が刻んだ農村の復興。それは、東京や横浜で大々的に進められた国主導の「帝都復興」とは異なる、地に足のついた庶民主体の復興だった。武村はそこに「心の復興」をみる。

耕地整理


 〈耕地ノ所有者相謀リテ 震災復舊(ふっきゅう)耕地整理組合ヲ組織シ 其(その)筋ニ認可ヲ申請シタルニ 大正十四年九月認可ヲ得 組合員六十七名 整理ノ区域ハ字八幡平水神洞西洞蛇ケ尾中尾幕坪其他〉

 〈工費ハ第一期六万二千圓(えん)餘(あまり) 第二期一万一千圓余 合計七万三千圓余ニシテ 縣ノ補助金一万六千五百三十二圓〉

 いきさつを事細かに刻んだ「震災復旧記念碑」が、農村復興の一端を浮かび上がらせる。立つのは、南足柄市内の路傍。こう結ばれている。

 〈實(まこと)ニ組合役員ノ努力 組合員及字民ノ犠牲的援助 工事請負諸氏ノ精励ト相俟(あいま)ツテ 官ノ指導監督其宜(よろ)シキヲ得タル賜(たまもの)ト謂(い)フベシ 爰(ここ)ニ斯(この)碑ヲ建テ 震災及工事ノ實績(じっせき)ヲ永遠ニ記念ス〉

 主体となったのは、被災した村民らによる耕地整理組合。震災以前の1900(明治33)年に施行されていた耕地整理法を活用した復興の試みだった。もとより大地震からの農地の再生を目的とした法律ではなく、分散していた小規模農地を整理、統合して道路やかんがい設備などを整え、耕地利用の増進を図るために定められていた。

 なぜ、この法を生かすことになったのか。疑問を解く鍵は石碑の裏面にあった。〈農務課長 草柳正治〉

 〈神奈川縣知事 池田宏〉の次にその名が刻まれている県の幹部職員が知恵を絞り、農村復興を各地で主導したと武村はみる。同法が適用されれば、公費の援助が受けられる。

戮力協心



 震災が起きたのは、実りの時季でもあった23(大正12)年の9月1日。「だから例えば、翌24年の田植えの時期までに何とか復旧を間に合わせるとか、水路だけはいち早く着工するとか、村の人々に寄り添った工夫があった」。村人にはない技術やノウハウを持っていた農林技師や土木技手らとともに草柳の名が刻まれた復興碑は、同じような手法で復興が進められた市内各所や小田原市内などに数多く立つ。


震源地に近い小田原には石碑や痕跡が多い。城址公園には、関東大震災で崩れた石垣が残る
震源地に近い小田原には石碑や痕跡が多い。城址公園には、関東大震災で崩れた石垣が残る

 「地主1戸当たりの負担額は、今の金額に直すと250万~400万円ぐらいだったようだ。これとは別に自宅の再建などにも費用がかかっているはず」。碑文を読み込んだ武村は、南足柄市の石碑に関する論文にこう記している。

 〈碑文を読むと、今と同じく、国からの交付金や県の補助金を使って復興が行われたことが分かるが、その多くで住民も参加して労働力を提供し、時には資金の不足分を自ら醵出(きょしゅつ)するなどして力を合わせて復興に取り組んだことが分かる。まさに『戮力協心(りくりょくきょうしん)』そのものである〉

 そして、考察をこう結んだ。〈その結果、震災前より農業生産に係る土木設備の整備が進み、また一方で農業経営の近代化もはかられた。住民によって多くの復興碑が建設された背景には、住民自身が復興を成し遂げたという実感があり、誇りをもってその業績を後世に伝えたいとの思いが強くあったのではないかと考えられる〉

 苦難の中で手を取り合った人々の姿に思いをはせながら、武村は多くの問題をはらむ東北沿岸の復興の現実に皮肉を込める。「住民の都合を考えずに堤防を高くして土地をかさ上げすれば、次の災害時の犠牲者は確かに減らせるだろう。なぜなら、住民がもはやそこに戻らないからだ」

 そして問いかける。「関東大震災当時と同じような復興は、もうできないのではないか。町内会でさえ加入する人が少ない今のような社会の仕組みで本当によいのか、一人一人が考えるべきだ」

 武村は再び、都内の石碑を調べ直そうと思案している。「当時の人々の気持ちを現代に生きるわれわれがくもうと努力を重ねれば、その思いを生き生きと再現できる。それこそ、受け継いでいかなければならないものだ」。百年誌を書き上げた今、その先を見据え、そんな思いを強くしている。 =敬称略

 
 

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