京急久里浜駅前の商店街を抜けると、ハイテク技術の工業団地「久里浜テクノパーク」と公園緑地「横須賀くりはま花の国」が広がる。
ここは戦前に旧海軍の軍需部倉庫群だった。戦後に接収され、米軍基地「久里浜倉庫地区」となっている。
横須賀市は返還の要望を重ね、1971年12月23日の日米合同委員会で全面返還が決まった。
だが国会ではこのころ、空母の横須賀母港化構想をめぐる議論も交わされていた。悲願だった基地返還が、空母の配備との取引に使われかねない-。地元には危機感が強まっていく。市と市議会は連名で国に「空母の母港化反対」を要望した。
年明けの1972年2月。横須賀の街の高台にある市文化会館が、1500人の市民で埋まった。「基地対策市民大会」。空母の母港化反対と、かねて市が求めていた基地艦船修理部(SRF)の早期返還が決議された。満場一致だった。
「軍港として長い歴史を持っていた横須賀の街では画期的なことだった」。当時、市民団体「ヨコスカ市民グループ」に参加していた新倉裕史は振り返る。
市長の長野正義も、市議会定例会本会議の施政方針演説で、SRFの返還に強…