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2020年2月の記事から
【ウエブ版解説】司法報道のタブーを破れるか

ジャーナリズム時評 神奈川新聞  2020年03月19日 02:00

 日本では、裁判官あるいは司法は絶対的に偉い、ということになっているようにみえる。

 もちろん、多くの国では国家に対する犯罪類型の一つとして、「法廷侮辱罪」という名の司法制度(裁判)・裁判所(法廷)・裁判官(判決)の権威を守るための法制度が存在している。日本にも、公判廷の厳粛さなどを守るための法(法廷等の秩序維持に関する法律)がある。

 こうした法制度は、司法への社会的信頼がなくなることで、判決に不満を抱いた被害者等による私刑(リンチ)が横行するといったようなことがあってはならないからだ。あるいは判決が公正に行われていることを前提に、民事上の争い事の最終決着方法として、裁判を活用し判決に従ってきている。

 しかしその権威を守ろうとするがために、あまりに「司法」は厚いベールに包まれ、というより堅固な壁に守られ、絶対的な力を行使する割には、そのチェック体制が脆弱(ぜいじゃく)ではなかろうか。とりわけ、行政や立法に対しては、相応の監視機能を果たしているジャーナリズムが、こと司法に対しては十分な働きをしていないのではないかと思う。

 あえていえば、日本の社会における報道タブーの一つが、<司法>ではないかということだ。

 私たち一般社会と司法の間を遮る「壁」を、三つのポイントから考えてみよう。

 第1は、情報公開の欠如だ。日本には、行政機関情報公開法がある。これもいま、曲がりなりにもという形容詞付きで紹介すべき悲惨な運用状況にはなっているが、ないよりはまし、である。なぜなら司法分野には存在しないからだ。

 最高裁が作った内部規定(司法行政文書開示事務取扱要綱)によって、司法関連文書の保存と公開がなされてはいる。しかしそのお粗末さが最近、ようやく徐々に明らかになってきた。本紙当欄でも触れたとおり、日本の司法の歴史を作ってきたような重要裁判の記録も、大部分を廃棄していることが分かったからだ。一時保存棚の端から順番に廃棄していたという話も漏れ伝わってきている。いかに日本には「残す」という文化がないかがよくわかる実例でもある。

 つい最近、多くの批判を受けて、2つ以上の新聞に掲載された裁判の記録は残す、というルールを一応は作った。これで半歩前進ではあるが、問題はまだ山積だ。それは、保存はされていても、裁判所(あるいは刑事事件の記録の保存を担当している検察)が見せないからだ。法的には刑事確定訴訟記録法(そのおおもとは刑事訴訟法)があって、閲覧ができることになっているが、現実的には個人のプライバシーを理由に、ほぼ全面的に不開示になっている(ましてコピーは認められない)。

 考えてみれば、刑事事件の記録はほぼ全面個人情報であって、プライバシーを理由にした瞬間に、公開できないことは自明だ。いわば、この理由付けを絶対にしている限り公開はあり得ないし、そもそも公開したくないがために、プライバシーを理由付けにしていることになる。この壁を崩す動きがいま、一部のジャーナリストや専門家などによってなされつつあるが、これは報道界全体が一致して取り組むべき課題だ。

 第2は、裁判官の過剰保護だ。政治や経済分野の報道では、いわゆる内幕ものがよく登場する(あの政策は、実はこんな人がかかわって、こうして誕生したといったものだ)。裁判官のインサイドストーリーを見たことがあるだろうか。いわば、裁判官の頭のなかを垣間見たり、日常生活を知ることはほとんど皆無だ(数少ない例外に、東海テレビ制作のドキュメンタリー番組「裁判官のお弁当」がある)。

 これはお互いにとって不幸な事態を招いている。裁判官は、ますます社会から孤立し、「非常識な裁判」をする余地が広がっていると思われるからだ。たまに「世間離れした判決」と批判した記事がみられるが、そうした状況を作っているのは、取材も報道もしないジャーナリズムの側にも責任があるということになる。

 もちろんその前には、裁判所の取材の壁が厚く、誰も取材に応じてくれないとは言うが、実際には、同じことは警察も検察も同じだし、官僚も相違ないだろう。そうした壁を破るのが取材であるはずだ。そこにはむしろ、裁判官はアンタッチャブル、というタブーが存在していないだろうか。

 第3は、法曹三者の持たれあいだ。その最たる例は、刑事裁判における裁判所と検察庁の密接な関係性だ。スムーズな公判手続きを進めるためなどから慣例的に日本では、刑事事件において検事と判事は常にセットであるのが一般的だ。より分かりやすく言えば、一つの所轄である限り、A検事はどの事件でも常にX判事の法廷と決まっているということだ。だから・・とはいわないまでも、こうした実態をきちんと報ずることは必要だろう。

 裁判員裁判もその弊害が出ている一つかもしれない。法曹三者と呼ばれる、最高裁(司法)・法務省(検察)・日弁連(弁護士)が一致したものは、相互チェックも批判の声も生まれず、問題点が隠蔽(いんぺい)されがちだ。裁判員裁判の制度は、三者が話し合いのもと合意を重ねてスタートした制度のため、たとえば合議のあり方や守秘義務の程度など、外から見えづらい問題点は表に出てこない傾向にある。

 やまゆり園裁判における被害者・被害者家族保護も、三者の合意の上で行われているために、本紙でも触れた傍聴席の遮蔽(しゃへい)は合理的なものなのか、どのような法的根拠にあるのかなどが十分チェックされないまま、実態がどんどん進んでしまう状況にあるのではないか。そうした時に、外部のチェック機能である記者の目は疎んじられ、取材のきっかけがつかみづらいがために、報道もスルーしがちになっているように思える。

 全部で90席程度の傍聴席のうち、30席強が衝立(ついたて)で区切られ、被害者家族用に割り当てられたことになる。さらに30席弱は報道機関に振り分けられ、その結果、一般傍聴席は30席弱となってしまったという。これは明らかに、市民の重要な権利であり憲法で保障されている裁判傍聴の権利が、物理的に3分の1に制限されたことになるのではないか。

 なお、本来であれば、報道機関の取材席は、一般傍聴席とは別に設置されるべきで、傍聴席を報道機関と一般市民でわけあうという構図も好ましいものではなかろう(筆者の経験では、英米独では記者席は一般傍聴席とは別に設置されている)。

 こうした壁をタブーとして放置するか、果敢に挑むのかは、記者次第である。司法が、本当に私たちの人権を守る最後の砦(とりで)であり続けるためには、ジャーナリズムの役割は重い。

※詳しくは、本紙版「ジャーナリズム時評」をお読みください。

山田健太(やまだ・けんた)専修大学ジャーナリズム学科教授・学科長。専門は言論法、ジャーナリズム研究。日本ペンクラブ専務理事。主著に「沖縄報道」「法とジャーナリズム第3版」「現代ジャーナリズム事典」(監修)「放送法と権力」「ジャーナリズムの行方」。


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