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神奈川新聞と戦争
(129)  1941年 近年まで残った傷跡

神奈川新聞と戦争 神奈川新聞  2020年03月08日 05:00

 日露戦争後の1906年に制定された廃兵院法をルーツとする傷痍(しょうい)軍人への福祉施設、政策は、日中戦争期に傷兵保護院、軍事保護院とその名を変えながら機能を充実した。近代兵器による激しい地上戦で障害を負う将兵の増加が社会問題となっていた。

 日本の障害者福祉は、戦争が一つの契機だった。九州看護福祉大教授の金蘭九の研究ノート「戦前・戦中期における傷痍軍人援護政策に関する研究」は、戦中の障害者福祉が傷痍軍人の「社会的・経済的自立」を目指し「医療、職業訓練、雇用奨励」を行うなど、現在に通ずる体系的な政策が整えられたと説く。

 戦後、傷痍軍人の援護は連合国軍総司令部(GHQ)の命令で停止され、軍事保護院は46年に廃止された。金によると、支援を失った傷痍軍人らは、身体障害者福祉法(49年)の制定を働きかけたという。

 このことを踏まえ、金は同法の背後に「国のために障害者になった傷痍軍人」への配慮があったと推察。「役に立つか、立たないか」という、国家への貢献度で価値を計る戦中の思想が潜むことを指摘した。

 一方、41年11月9日の神奈川県新聞(本紙の前身)が「皇后陛下 御下賜の菊花に白衣勇士が感激」と報じ、皇后が傷痍軍人をねぎらった「美談」の現場となり注目された相模原の臨時東京第3陸軍病院は戦後、国立病院として再スタートした。

 同院を題材にした上田早記子大谷大講師の論文「昭和十年代の臨時陸軍病院におけるリハビリテーション」によると、戦後の国立病院が対象を一般国民に拡大したことで、従来入院していた傷痍軍人の「処遇問題」が浮上したという。戦争に駆り出され負傷した将兵らは、戦後も国策に翻弄(ほんろう)された。

 相模原と同じく、廃兵院法に基づく陸軍省所管の病院を前身とする小田原市の国立病院機構箱根病院。そのホームページの沿革欄には、08年に「傷痍軍人の入院が終了した」と記されている。戦争の傷跡は近年まで存在していたのだ。


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