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神奈川新聞と戦争
(128)1941年 傷痍軍人に扮した子

神奈川新聞と戦争 神奈川新聞  2020年02月23日 05:00

戸部国民学校で行われた行列。中央の「八紘一宇日本精神高揚」の後ろに傷痍軍人と看護師に仮装した子どもたちが見える(長谷川徑弘さん所蔵)
戸部国民学校で行われた行列。中央の「八紘一宇日本精神高揚」の後ろに傷痍軍人と看護師に仮装した子どもたちが見える(長谷川徑弘さん所蔵)

 「意味がわかりました。ずっと『なぜ』だったのです」。傷痍(しょうい)軍人を巡る本欄の記事について、横浜市西区に住む長谷川徑弘さん(83)から便りがあった。1枚の白黒写真のコピーが添えられていた。

 学校の運動場で、子どもたちが運動会の行進をしている。「銃後はこれだ 国民大行進」のプラカードを掲げた2人、日の丸を提げた子、さらに神武天皇に扮(ふん)した子。「八紘(はっこう)一宇(いちう)日本精神高揚」と縦書きした看板の後ろに行列するのが、白衣につえを突いた傷痍軍人と、白衣の看護師に仮装した少年少女たちだった。

 写真は、長谷川さんの母が近くの写真館で求めたものだという。撮影場所は長谷川さんが当時通っていた戸部国民学校(現在の市立戸部小学校)で、時期は1943年ごろとみられる。長谷川さんは亡母を「教育熱心な母でした」と振り返る。わが子の運動会の記念品として買ったようだ。

 母は45年5月29日の横浜大空襲の11日後に亡くなった。末の妹を出産した直後とあって体が弱っていた。長谷川さんは前年から箱根に学童疎開しており、親子は離れ離れのまま、死に目にも会えなかった。

 この写真が空襲に焼かれなかったのは、2歳上の兄が家族の大事な品々とともに自宅地下の防空壕(ごう)に収めたからだという。戦意高揚のために子どもたち、そして傷痍軍人という「偶像」が動員されたことを示す貴重な記録が残された。

 「戦後、ずっと分からなかったんです。なんで傷痍軍人や看護師に扮装(ふんそう)した子たちが行列に、それも先頭の方にいたのかと」

 前回紹介したように、41年11月8日と9日の神奈川県新聞(本紙の前身)には、厚生省外局の軍事保護院の標語そのままに「国を護(まも)つた傷兵護れ!」と掲げた寿屋(後のサントリー)の広告、そして相模原の臨時東京第3陸軍病院に皇后が菊花を贈った記事が立て続けに掲載された。

 長谷川さんは言う。「そうか、これか、と思いました。銃後の国民が傷痍軍人を大事にしていますよ、という国策をアピールしていたわけですね」


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