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神奈川新聞と戦争
(126)1941年 治療は「奉公」だった

神奈川新聞と戦争 神奈川新聞  2020年02月09日 05:00

 「皇后陛下 御下賜の菊花に白衣勇士が感激」。1941年11月9日の神奈川県新聞(本紙の前身)に、そんな見出しとともに写真付きの囲み記事が掲載された。相模原の臨時東京第3陸軍病院に収容された傷病兵に対し、皇后が菊花を贈った、という話である。


相模原の臨時東京第3陸軍病院に皇后から菊花が「下賜」されたことを伝える1941年11月9日の神奈川県新聞
相模原の臨時東京第3陸軍病院に皇后から菊花が「下賜」されたことを伝える1941年11月9日の神奈川県新聞

 「畏(かしこ)くも皇后陛下には傷病兵の上に深き御仁慈を垂れさせ給(たま)ひ白衣の勇士を御慰問の有難(ありがた)き思召(おぼしめし)をもつて菊花を御下賜遊ばされた」と本文にある。「白衣の勇士」は傷病兵のことだ。

 同病院は、相模原台地の「軍都計画」の一環で38年3月に設けられた。「相模原市史」第4巻(71年)によると、軍都計画は東京にあった陸軍施設を相模原台地に移転させる目的で、36年に本格化。翌年以降、現在の相模原市南区と座間市に当たる4つの村に、陸軍士官学校などが相次いで移転した。日中戦争の開戦、激化の時期に重なる。

 市史には、同病院が35ヘクタールの広い敷地に、わずか3カ月の短期間で完成したことが記されている。建設の模様は「昼夜兼行の突貫工事」で「相当なバラック建で松の根を切りそのまま土台にしたところもあった」ほどだった。収容患者は当初の計画では4500人だったが、一時は6千人を超えたこともあるという。

 社会福祉学が専門の上田早記子大谷大講師は、論文「昭和十年代の臨時陸軍病院におけるリハビリテーション-傷痍(しょうい)軍人の就労への道-」(四天王寺大学紀要54号所収、2012年)で、同病院の設置目的が「戦力増強及(およ)び再起奉公」にあったと指摘した。

 「再起奉公」とは当時の言葉で、社会復帰を意味する。同論文によると、戦地で重い傷病を負った将兵は野戦病院などを経て病院船に乗せられ広島、小倉(現北九州市)、大阪の陸軍病院に入院。治療で症状が安定した後に相模原などの臨時病院に移送され、リハビリテーションを受ける順序だったという。

 記事には菊花を「下賜」された傷病兵たちが「再起奉公の決意も新に療養に精進してゐる」とある。いち早くけがや病気を治療し、社会復帰することは戦時下では「奉公」だった。


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