「怖いものは世の中にない。もっと過酷なことはないのか」─。限界を突破することに生きがいを見いだす姿勢が三浦浩(55)をパラリンピアンの道へと突き動かした。
(上)昔に戻りたいとは思わない 障害者スポーツが夢をくれた
(下)車いすバスケ・鈴木百萌子 31歳、今が青春かもしれない
脊髄損傷の事故から2年4カ月後の2004年8月21日。歌手・長渕剛(63)の専属スタッフだった三浦は鹿児島・桜島で行ったオールナイトライブで「最高責任者」を任された。約7万5千人のファンが詰めかけ「伝説」と語り継がれるその光景を前に、三浦は「自分の中にはじけるものがあった」。
2カ月前から本番を想定し屋内で気温30度以上という厳しい環境で行うリハーサルも経験した。「日本で最初で最後の車いすのライブスタッフ」は〝地獄〟を乗り越えてきた。
若き頃から長渕の生きざまに憧れてきた。
「死んじまいたいほどの苦しみ悲しみ~」と長渕自らが極限からはい上がることを歌った一曲「STAY DREAM」に感銘を受けて奮い立った。「パラを目指すのは桜島に比べたら苦じゃない」。その頃盛り上がっていたアテネ大会でパワーリフティングを知った。楽屋で長渕とウエートトレーニングにも励んだ三浦にとって競技の世界に入るのはたやすいことだった。
パワーリフティングは三浦が生まれた1964年の東京大会で始まった。