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酒と涙と男と天ぷら(7)
関内情緒 セピア色の写真から

神奈川新聞  2019年06月28日 01:38

現在改装中の店舗が開店した直後の正月に撮影された一家のスナップ。左手前の男児(筆者)が寄り掛かっているのが母の信子さん。中央や左で抱きかかえられている「おくるみ」が、妹の由子さん。右から2番目が父の弘之さん=1957年1月、横浜市中区港町
現在改装中の店舗が開店した直後の正月に撮影された一家のスナップ。左手前の男児(筆者)が寄り掛かっているのが母の信子さん。中央や左で抱きかかえられている「おくるみ」が、妹の由子さん。右から2番目が父の弘之さん=1957年1月、横浜市中区港町

 目の前に差し出された一枚の黄ばんだ写真が、脳みその隅にこびりついて干からびた思い出をスクリーンに映し出してくれた。モノクロで音もなく傷んでいるものの、確かにこの場面はあった。

 父の墓参りの後、母と妹と一緒に荒井屋へ遅いお昼をいただきに行った四月のことだ。祖母が荒井屋の初代庄兵衛さんの二女だったので、荒井屋の一雄社長とわたしは再従兄弟(はとこ)になる。頼りになる親類である。三人で牛鍋をつついていると、一雄ちゃんが一枚の写真を持ってきてくれた。「これ、成男ちゃんじゃない?」

 写真の左隅には確かに、母の愛を独り占めしている関内周辺で当時一番かわいいと言われていたわたしがいた。まだ焼け跡だらけの昭和三十一(一九五六)年、横浜大空襲で全焼したうちの店を、関内駅前に建て直した直後の場面だ。現在の店舗である。

 関内駅も市役所もなく、店の周りは草が生い茂った空き地と焼けたビルがあるだけで、関内牧場といわれていた時代である。うちの横には大岡川の支流が流れ、豊国橋の半円形の欄干は、わたしと妹の格好の滑り台になった。空き地にはたくさんの建築資材が置かれ、二人だけの隠れんぼに最適だった。

 写真の真ん中辺りで祖母が抱えているモスラのさなぎ状のモノは、まだ羽化していない妹である。妹が本当のモスラになるとは、この時わたしは気付いていない。実は、この建物の開店翌日に妹が生まれている。昭和三十一年十二月十日誕生のこの二階家は、妹と一日違いの同い年である。四十八歳になる。三代目の源蔵じいちゃんが頑張っていた時で、父は当時、進駐軍の通訳をしていた。右端で気取っているちょうネクタイが亡き父である。

 写真の父を見て母が言った。「お父さんはキザだったけど、いい人だったよね」。その時、母のほおにキラリと光るものが流れた。鼻水だった。「風邪ひいてんじゃん」。そして妹が言った。「わたし、おばあちゃんに抱かれたことがないと思っていたけど、抱かれてたんだー。えへっ」。この後、妹は巨大化し、重くて抱くことができなくなった。

 ふとした拍子に姿を現した昔の家族の肖像は、その時代のドラマを再生するビデオのようだ。たった一枚の写真から幾つものシーンが再生されるのである。この店で祖父母、父母、わたしの家族、そしてたくさんの従業員の家族が生活をし、ドラマを作り出してきた。

 当時の関内の情景がわたしの脳裏によみがえり、写真の中の僕に思わず話し掛けた。「お前、やっぱりおふくろに甘えてるじゃん」

(2004.6.6)



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